香りを、記憶から設計する
スペシャリストが語る嗅覚の世界
一瞬で10年前の記憶を蘇らせ、心の奥底に眠る感情を呼び起こす。そんな不思議な力を持つのが「香り」だ。
「深呼吸したくなるような香り」——そう語るのは、香りのスペシャリスト、Scentscape Design Studioの小泉祐貴子氏である。彼女にとって香りとは、人間にとって最も根源的で価値のあるもの。ブランドの魂を香りという言語で表現する、いわば「翻訳者」として活動している。
資生堂でアロマセラピーとサイエンスを融合した研究に従事し、世界最大手の香料会社フィルメニッヒでは「香りを通して世界とつながる感覚」を実感した。現在は独立し、ブランドフレグランスの開発から空間演出まで、香りの力でブランドの世界観を創造している。
日本発のウェルネスブランド・MIROSの香り開発でも中心的な役割を果たす小泉氏。美容液「Serum 8」に賦香され、旗艦店であるMIROS 表参道の空間にも漂う香り「KARESANSUI」はどのように生まれたのか。
調香の哲学と、日本発ブランドに対する思いを聞いた。
ファーストフレグランスは中学生の時

小泉氏と香りとの関係は、決して一直線ではなかった。中高生の頃はピアニストか宇宙飛行士になることを目指し、コンクールに出たり宇宙物理を勉強したりと忙しい毎日を過ごしていた。大学では理工学部電気工学科に進学。医用工学の研究をするようになり、それが就職先での香りの研究へとつながっていく。一見バラバラに見える経歴だが、振り返ると全てが感覚的なものへの探求につながっており、最終的には香りという軸への導線だったという。
その出発点は、中学進学時に両親から贈られた「ファーストフレグランス」だった。「父がアメリカの企業にいたことや、母がフランス文学を専攻していたこともあり、海外の文化との接点は小さい頃から身近にありました。中学生だったので実際にはつけませんでしたが、その香りが本当に好きで、今でもそのボトルは大切に取ってあります」
幼少期の滋賀県での暮らしでは、自然の豊かな香りに囲まれていた。シロツメクサを編んでいる時の草原の香り、庭の芝を刈った時の青々とした香り、冬の散歩での冷たい空気の感触——そうした記憶が、後の香りへの関心の土台となっていた。
大学では医用工学を専攻し、ストレス・疲労の研究に従事した。その技術に興味を持った資生堂から声がかかり、最終的な就職先となった。これが香りとの最初の本格的な接点となる。
香料会社で見た「世界とつながる感覚」
資生堂時代には、様々な香りの研究に携わった。中でも印象深かったのが、「グレープフルーツの香りで痩せる」という商品の研究だった。「今思えば、香りの可能性を改めて感じた仕事でした」
その後、世界最大手のフレグランス企業フィルメニッヒで、香りの世界をさらに深く知ることになる。化粧品会社では、香りは「商品価値を最大化するため」のものだったが、香料会社では「香り・フレグランスそのものを開発する」ことが中心となる。
グローバルチームの一員として、小泉氏は「アジアで一番出張費をかけた」と言われるほど世界を飛び回った。そこで実感したのが「香りを通して世界とつながる感覚」だった。世界各地の嗜好性の違いを肌で感じたことも大きな経験となったという。例えば、トルコ人と日本人では、同じ香りでも全く異なる印象を持つ。「知っている香りへの好感度が高い」からだ。文化によって慣れ親しんだ香りが違うため、反応も大きく変わってくる。
フィルメニッヒで触れた「最高級の香り」は、小泉氏の嗅覚を大きく開いた。「香りの厚みが全然違うんです。香りそのものが美しい」——厳選された素材、確実な製造ルート、そして第一線の香水ブランドと勝負できる技術力。それらが生み出す香りの品質は、従来の認識を超えるものだった。
「深呼吸したくなる香り」枯山水

独立後、小泉氏はブランドの香り開発に特化したアプローチを確立した。それは単なる調香ではなく、「翻訳者」として活動することだった。ブランドが伝えたい想いや世界を、香りという言語に変換し、人々の心に届ける——そんな役割である。
MIROS創業者である中川との共同開発による香りづくりは、小泉氏にとっても印象的なプロジェクトだった。中川は最初から香りを「ブランドの核となる要素」として位置づけており、ブランドを創り上げる上での香りの役割の大きさを深く理解していた。そして、特徴的だったのは、一切のベンチマークを設けなかったことだ。「何かに似せる」のではなく、ブランドの世界観からゼロベースで香りを創造していく。
コンセプトの出発点は「枯山水」だった。水を使わずに水を表現する唯一無二の日本庭園のスタイル——複数の素材が融合して一つの世界を作り上げる考え方が、MIROSの哲学と重なった。小泉氏は日本庭園と香りについて深く研究した経験をもつ。源氏物語に記された雨上がりの香り、桂離宮の花の季節、茶庭から茶室に向かう道のり。日本人には、長い歴史に育まれ醸成されてきた香りの感性が継承されている。
「石、苔、木、枯山水の要素を香りで表現したいという中川さんのご希望からスタートしました」石の硬質感、苔のパチョリ、木のシダーウッドとサンダルウッド。しかし最初の試作は「それぞれの素材の個性を感じられるように作ったところ、全体としてメンズ寄りの印象が強くなっていました」。毎日のスキンケア商品としての心地よさと、MIROSブランドらしい洗練された世界観の両立が必要だった。
そこで小泉氏が目指したのが「深呼吸したくなるような香り」だった。森の中の自然なウッディノート、上質なフレグランスのような奥行きを残しつつ、どう心地よく表現するか。トップノートには柑橘類の果皮の香りを立たせ、シズル感とフレッシュさ、軽やかさと明るさを演出した。「使い続けて心地よい香りでないといけない。個性的であるだけでは意味がないんです」。
香りを自分の味方にする

「香りには力があります。」小泉氏の言葉には、長年香りと向き合ってきた確信がある。現代において香りの役割は大きく変化している。80年代の「個性的で強い香りが好まれる時代」を経て、人々は香りに快適性やナチュラルさを求めるようになった。近年は、自分らしさの表現のひとつとして香りに再び注目が集まっている。
「香りはリラックス効果だけでなく、自分らしさをサポートしてくれる存在。自信を与えてくれます。」自分の快適性を上げるために香りを選ぶことも、他人に嫌われない香りをつけることであっても『自分らしさ』の一つだ。疲れた時に心を整えてくれたり、暮らしに彩りを与えてくれたり、香りの可能性は想像以上に広い。
MIROSの開発では、スキンケアの香りの役割についても明確に考えた。「例えば、ボディケアは香りを積極的に楽しむものもあるが、スキンケアの香りは基本的に受け身。自然体でいられる香りがふさわしいと考えます。」、この繊細な役割定義が、製品コンセプトに反映されている。
「生きる上で香りがない瞬間を探す方が大変なくらい、私たちの周りには香りがあふれています。だからこそ、自分が心地よくいられるものをしっかり選ぶスキルを身につけていただきたい。一度身につければ、一生楽しめるスキルです。香りを自分の味方にしてほしいんです」
決して飽きることのない、香りの世界

「体験したことがないものが好き。新しいものを生み出すことが楽しいんです」——小泉氏の探究心は、香りの世界の無限の可能性と共鳴している。
長年香りに携わってきた彼女だが、この分野にはまだまだ未知の領域があると語る。「死ぬまで飽きないと思います。時代とともに香りも変わっていきますし、全く同じものは存在しない。今年のトレンドと来年のトレンドは違ってくる。そこにはその時代を生きる私たちの価値観が反映されていくんです。」
香りには、時間を超越する不思議な力もある。「10年後にその香りを嗅いで、10年前の自分ってこうだったなって思い出したり、昔は背伸びするように感じた香りも今の自分には似合っていたり。感じ方の変化自体も香りの魅力です。」
MIROSのプロジェクトを振り返って、小泉氏は「お声掛けいただいたタイミングも良かった」と話す。ブランドの立ち上げ期に関われたこと、香りに対する理解が深いチームと出会えたこと——「今は勢いが大事な段階。KARESANSUIという香りがブランドの芯になり、そこから空間や季節に合わせて香りの世界観が広がっていくと思います」
翻訳者として、小泉氏はこれからも未知の香りの表現を探求し続ける。「自分の印象を大事にして、それを伝える言葉を見つけていく。体験したことがないものを香りで表現するクリエイティビティ、それが私の仕事の面白さです。」
深呼吸したくなるような香り。それは単なるリラクゼーションを超えた、ありのままの自分を慈しむ瞬間への誘いかもしれない。忙しい日々の中で、本来備わっている力を高め、自分らしくいるための香り。表面的なケアにとどまらず、より美しい時間へと深めていく。
小泉氏が「翻訳」する香りの世界は、人が本来もつ美しさを内側から引き出す、MIROSが提案する新しいウェルネスそのものである。

「KARESANSUI」の香りが賦香された、MIROSの美容液 Serum 8を体験する
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